悪性中皮腫はアスベスト(石綿)曝露後、約20~40年後に生じる比較的稀な悪性腫瘍です。悪性中皮腫は、様々なメカニズムでアスベスト繊維が正常の中皮細胞のDNAや染色体に損傷(ゲノム異常)を起こすことにより、正常の中皮細胞を悪性化させると考えられています。
アスベスト(石綿)の曝露がもっとも重要な悪性中皮腫のリスク因子(環境要因)です。アスベストは6種類知られていますが、クリソタイル(白石綿)が最も大量に消費され、様々な工業製品(造船、電機関係、建築物など)に使用されてきました。他に、発がん性の高いクロシドライト(青石綿)やアモサイト(茶石綿)が知られています。現在、本邦も含め、約60か国でアスベストの採掘、加工、使用が禁じられています。しかし、発展途上国ではまだ大量に使われ、そういった国々で、悪性中皮腫を含むアスベスト関連疾患の実態は全くと言っていいほど不明です。
がんに関与する遺伝子は大きく、がん化を促進する「がん遺伝子」とがん化を抑える「がん抑制遺伝子」に分けられます。悪性中皮腫細胞で見つかる遺伝子の異常は、BAP1、NF2、 CDKN2A(p16)といった少数の「がん抑制遺伝子」が高頻度に変異していることが大きな特徴です。いずれの遺伝子も通常、生後つまり後天的に起きた現象です。一方、「がん遺伝子」の変異は悪性中皮腫では非常に稀にしか検出されません。「がん遺伝子の異常」は分子標的剤が効く場合があり、肺がんなどでは上皮成長因子受容体(EGFR)の遺伝子変異があると、分子標的剤が効きます。しかし、こういった「がん遺伝子」は悪性中皮腫ではほとんど認めることがなく、こういったタイプの薬剤が奏功しにくい原因と考えられています。
悪性中皮腫は、病理組織学的には上皮型、肉腫型、二相型(上皮成分と肉腫成分が混在しています)に大別されます。それぞれの組織型で遺伝子変異の頻度に差が認められます。また、発生部位に関しては胸膜が最も多く(本邦では悪性中皮腫全体の約90%)、一方、腹膜は頻度が低い(約10%)ですが、両者は比較的似た遺伝子変異のパターンを示します。
BAP1遺伝子はもともとBRCA1に結合する蛋白質として発見されました。BRCA1は遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)の原因遺伝子です。
BAP1遺伝子は悪性中皮腫で最も高頻度に変異が認められます。BAP1蛋白は主に細胞の核内で機能するため、免疫組織染色(IHC)という手法を用いて、組織スライドでBAP1の核内における存在の有無を判定することが診断上、大変有用と考えられています。つまり、BAP1が細胞核内に染まらないとBAP1蛋白に異常があると判定されます。今までに報告されたデータを総合すると上皮型中皮腫の60~70%、二相型中皮腫の50~60%で不活化していると考えられます。一方、肉腫型での変異は比較的稀(20%前後)です。
非常に稀ですが、BAP1の生殖細胞系列変異(生まれつきの変異で、保因者の親から子へ50%の確率で遺伝します)を有する家系が報告され、悪性中皮腫を始めとする様々な腫瘍が発症することが報告されました。BAP1 tumor predisposition syndrome(BAP1-TPDS: BAP1腫瘍素因症候群)と呼称されています。この家系では、悪性中皮腫、眼のブドウ膜メラノーマ、腎がん、皮膚メラノーマが好発します。欧米とオーストラリアの研究では181家系が報告されています。日本においても最近、がんの遺伝子パネル検査が行われる中で、極めて稀ですがBAP1の生殖細胞系列変異の症例が報告されています。
NF2遺伝子はもともと、遺伝性腫瘍のひとつである神経線維腫症2型の原因遺伝子として発見されたがん抑制遺伝子です。NF2遺伝子は悪性中皮腫全体の約40%に不活化変異が認められます。肉腫型の方が上皮型よりも若干遺伝子変異の頻度が高いと言われています。
NF2は様々な細胞内シグナル伝達経路を制御しますが、特に注目されているのはヒッポシグナル伝達経路です。このシグナル伝達経路が破綻すると、がんの増殖や進行に関する多くの遺伝子の発現が促進され、細胞の悪性化につながると考えられます。最近の報告ではNF2遺伝子の変異は悪性中皮腫が進展した部分に検出され、最初に発生した場所には見つからないケースも見つかっているようです。この結果は、NF2の遺伝子変異が起こるのは、腫瘍が広がっていく際の比較的後期の出来事であり、NF2遺伝子異常が加わるとさらに細胞の悪性化を促進することを示唆しています。
CDKN2AとCDKN2B(別名p16とp15)も代表的ながん抑制遺伝子で、染色体上では極めて近い位置に存在しています。細胞周期、つまり細胞の分裂や増殖に関係する重要な遺伝子です。CDKN2A/2Bの欠失は多くの悪性腫瘍で最も高頻度に認められる遺伝子異常の一つです。悪性中皮腫でも高頻度に不活性化が認められます。FISH法と呼ばれる染色体を染める技術を使うとCDKN2A(p16)のホモ接合性欠失(細胞内に遺伝子は2つありますが両方が欠けたことをホモ接合性欠失と呼びます)は胸膜中皮腫では約70%(上皮型と二相型で70%、肉腫型は90~100%)と報告されています。がん抑制遺伝子の場合、細胞内には正常な遺伝子が2コピーあるので、1つが欠けても残った1つで細胞の正常な機能がある程度保たれます。しかし、2つとも欠失(あるいは変異)すると、その機能が全く失われることになり、がん化につながります。
遺伝子異常の存在が悪性中皮腫の補助診断になる場合があります。特に上皮型の悪性中皮腫と、良性の病変である「反応性中皮細胞」の鑑別に大きな力を発揮する場合があります。第1に、免疫組織学的染色(IHC)を用いて、細胞の核におけるBAP1の発現が消失していると悪性細胞の可能性が高いです。第2に、 FISH法によるCDKN2A/p16のホモ接合性の消失も悪性細胞の証拠になります。後者については上記のFISH法が一般病院では十分に行うことが難しいため、代わりにp16遺伝子の近くに位置するメチルアデノシンホスホリラーゼ (MTAP) と呼ばれる遺伝子をチェックします。免疫組織学的検査で検討した時、MTAP蛋白の発現が消失していると、MTAPと同時にCDKN2A(p16)が欠失(すなわち不活性化)している可能性が高く、悪性中皮腫細胞であることを強く示唆します。
ヒトの悪性腫瘍で最も変異頻度が高いと言われるのはTP53遺伝子というがん抑制遺伝子です。TP53遺伝子の悪性中皮腫における変異頻度は8~15%です。また、染色体の先端(テロメア)の維持に関与するテロメラーゼも、細胞の分裂や生存に重要ですが、それに関わるTERT遺伝子の異常は12%の症例に検出されます。
BAP1, NF2, CDKN2A/2B が極めて高頻度の変異を示す3つの遺伝子ですが、次にTP53、TERT、そして、LATS2(約10%)、SETD2 (約8%)といった遺伝子が続きます。その他の遺伝子の変異頻度は極めて低く、いずれの報告でも5%未満です。
上記で述べたように、悪性中皮腫ではEGFRなどの「がん遺伝子」のドライバー変異が起きるのは極めて稀です。このことが悪性中皮腫に既存の分子標的薬(チロシンキナーゼ阻害剤など)が奏功しない大きな要因の一つと考えられています。例外的ですが、腹膜中皮腫においてがん遺伝子であるALK遺伝子の異常が約3%の症例で検出されます。ALK異常を有する腹膜中皮腫の患者さんには、ALK阻害剤が投与されて奏功するケースも報告されています。
一般的に多くのがんで遺伝子異常の数が多ければ多いほど、免疫チェックポイント阻害剤(ニボルマブなど)の奏効率が高いと言われています。腫瘍に遺伝子変異が蓄積した指標をTumor mutation burden (TMB)と呼ばれていますが、悪性中皮腫では遺伝子変異数はかなり少ないので、この指標はなかなか当てはまりません。一般的には、ニボルマブが奏功しやすいのはPD-L1発現が高いがんですが、悪性中皮腫の場合、PD-L1の関与が若干示唆されるものの、まだ明確な治療を予測する効果的なマーカー(指標)は見つかっていません。
悪性中皮腫の発症リスクとしてアスベスト曝露が最も重要な環境要因ですが、オーストラリアのクロシドライト鉱山に携わった労働者の長期にわたるフォロー研究の結果、約5%にしか実際には悪性中皮腫を発症しないことが報告されています。その点、発症リスクの遺伝的要因として複数の遺伝子の関与が以前より想像されていますが、明確なデータは見つかっていません。
上記で述べたように単一の遺伝子異常としてBAP1遺伝子の生殖細胞系列変異の存在が明らかとなったのは極めて意外なことでしたが、そういった家系は日本では非常に頻度が低いようです。アスベストの曝露を受けた方の中で、どういった方に悪性中皮腫の発症のリスクが高いのか、まだ明らかな答えは出ておらず、今後更に詳細に検討する必要があります。
最後に、悪性中皮腫の発生や浸潤、悪性化、細胞の様々な特徴についてまだ良くわかっていないことが多いことを申し添えます。悪性中皮腫の基礎研究が進んでそういったことが解明されれば、さらに新しい予防法、診断法、治療法が開発できるのではないかと考えています。
2023年6月1日
愛知県がんセンター研究所分子腫瘍学分野 関戸 好孝